また日本には、602年に百済の僧「観勒(かんろく)」により、「地理」という名前で風水は伝えられました。『日本書紀』に「百済の僧、観勒(かんろく)来けり。よりて暦の本及び天文地理の書、あわせて遁甲方術の書をたてまつる。是の時に書生三十四人を選びて、観勒に学び習はしむ」と記載されており、これが初めての中国占術の日本到来と考えられます。 それ以降、風水は日本で陰陽道・仏教・神道などとも結びつき、独自の発展を遂げ、都を築く時には必ず風水技術が用いられていくようになりました。藤原京・平城京・恭仁京・長岡京・平安京などにも用いられ、その中でも、特に平安京はもっとも完成されたものだといわれています。 戦国時代には、多くの武将たちも風水の知識を大いに活用しました。武将に仕えている軍師たちは、軍師養成学校であった「足利学校」で易や風水などを学び、風水を基本とした都城づくりに大きく関わっていました。 風水はその後、一般にも広がっていきましたが、大正時代以降このような本格的な風水術は一般には廃れていくこととなります。その代わりに、風水の考えを取り入れて日本独自の方法でより一般的にした『家相』に変わっていきました。
現代に入り、欧米で起こった風水ブームによって、世界的に風水はまた見直されてくるようになりました。その影響からか、日本でも風水は再び注目を集めることとなっています。