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風水
特徴

 風水(ふうすい)は、古代中国の時代から都市、墓、住居を建設するために用いられてきた方法です。近年、日本でも風水ブームが起こり、一躍注目を集め始めました。しかし、現在知られている風水の多くは、日本に昔からある家相がほとんどで、中国・台湾・香港・シンガポールなどで使われている風水とは、違う点が多く見受けられるのが現状です。
 風水という名称は、人に有用な働きをもたらす気が、「風」に乗って散じ、「水」で止まるという考え方から呼ばれています。
 この風水にはいくつかの種類があり、大きく分けると「地理風水」「陰宅風水」「陽宅風水」があります。「地理風水」は、古来より都市計画に用いられてきた方法で、現在でも栄えている都市は、この地理風水の好立地にあるとされています。東京もその一つです。「陰宅風水」は、死者を埋葬する墓地を選ぶために用いられる方法で、死者を風水上の好立地に埋葬することで、その子孫が繁栄するとされています。 しかし日本では、死者を埋葬するには場所が限られており、また火葬にしてしまうため、あまり効果は望めません。一方、「陽宅風水」は我々が住む住居に用いられる方法です。現在日本でよく知られるようになった風水は、この「陽宅風水」にあたります。土地の選び方から、家や建物の設計や増改築、各部屋のインテリア調整に至るまで、さまざまな判断方法が存在します。
 また風水の判断法として、「巒頭(らんとう)法」と「理気(りき)法」という2つの技法が存在します。「巒頭法」は、その土地や家の状態を目で見える形状から判断する方法です。向かいの家の角がこちらを向いていると良くない、などの例はこれに当たります。一方、「理気法」は、陰陽五行・八卦・九星などの理論を用い、羅盤(らばん)と呼ばれる道具を使用して目に見えない気を判断する方法です。 また、その家に住む人の生年月日も判断の対象とします。
 風水をバランス良く調節することによって、悪い運気は改善し、良い運気はより良くすることが可能になります。このような様々な側面から大地の気の流れを読み取り、その気を応用してその地に暮らす一家一族を繁栄させるための方法論が、風水なのです。

歴史

 今から3500年ほど前の中国において、この土地に建物を建設してよいかどうかを、亀の甲羅や獣の骨を焼いてできたひび割れの状態から、吉凶を占い判断していました。これが風水術の原型といわれています。また伝説では、紀元前27世紀に黄帝が地相見の達人・青烏子(せいうし)に諮問して、地理に関する経典を制定したのが風水の始まりとされています。この青烏子の名前を取り、風水は「青烏之術」と呼ばれていました。
 この風水は、夏代から漢・晋・唐代に至るまでの約3000年の間、皇帝や貴族たちのために用いられ、都市計画や墳墓の建設技術として続いていくこととなります。
 2500年前には、孔子の孫弟子である魯班(ろはん)が、「建築の神様」と呼ばれ名を残したことが知られています。長さの吉凶を定めた「魯班尺」を作った人物です。
 秦・漢代になると、陰陽五行説が盛行し、風水がいよいよ哲学的に体系化されていくようになります。当時は「堪輿(かんよ・天地の意)」または「地理」と呼ばれていました。風水は非常に発展し、「堪輿家」と呼ばれる現代の風水師である地相占いの専門家が出てきたり、『堪輿金匱』・『宮宅地形』といった風水書が著されるようになってきました。
 三国時代になると、風水の伝説的な祖とされる管輅(かんろ)という人物が現れました。管輅は、青龍・朱雀・白虎・玄武の四神獣と地形との関係を初めて世に出した人といわれ、魏の曹操にも一目置かれる存在だったそうです。
 晋の時代には、風水の古典の原書に位置付けされる『葬書』の著者・郭璞(かくはく)のような大名人が登場し、風水の名が高まっていくこととなります。この『葬書』の中で郭璞が、「氣は風に乗じて散じ、水に界られて即ち止まる」と書き残していますが、これが風水という言葉のはじまりとなります。 しかし、この頃はまだ方位を計測する方法が確立していなかったため、山や川の形や勢いからその土地の氣の状態を判断する方法のみでした。
 唐・五代・宋の時代(7世紀〜13世紀)になると、中国思想、とりわけ易経に様々な視点が集まってきました。理気の手法も確立され羅(針)盤も普及し、風水の体系は整っていきました。この時代は、巒頭派(江西で広まった地形を観察して判断する流派)と理気派(福建で広まった八卦や干支、羅盤を用いて判断する流派)に大きく分類された時期でもあり、風水の全盛期ともいわれる時代です。風水師としては、楊救貧(ようきゅうひん)、曾文仙(そぶんせん)、寥金精(りょうきんせい)、頼文俊(らいぶんしゅん)の風水四大名家が活躍しました。この中でも特に、巒頭派の始祖と言って過言ではない楊救貧はとりわけ功績が大きかったといわれています。
 その後、明から清へと風水術は受け継がれ、気学や儒教、道教思想などとも結びつき、混ざり合いながら、民衆にも浸透していくことになります。この時代には、劉伯温が、『堪輿漫興』や『地理青嚢経』を残し、また、宋の時代の『皇極経世書』をもとに幕講僧(無極子)が「三元九運説」を発表したりしました。
 このように、中国で風水は17世紀半ばまで大いに発展していきましたが、文化大革命以後、風水は他の多くの占術同様、迷信であると弾圧され、本国の風水師の多くは台湾、香港、シンガポールなどに移って行くこととなります。

 また日本には、602年に百済の僧「観勒(かんろく)」により、「地理」という名前で風水は伝えられました。『日本書紀』に「百済の僧、観勒(かんろく)来けり。よりて暦の本及び天文地理の書、あわせて遁甲方術の書をたてまつる。是の時に書生三十四人を選びて、観勒に学び習はしむ」と記載されており、これが初めての中国占術の日本到来と考えられます。
 それ以降、風水は日本で陰陽道・仏教・神道などとも結びつき、独自の発展を遂げ、都を築く時には必ず風水技術が用いられていくようになりました。藤原京・平城京・恭仁京・長岡京・平安京などにも用いられ、その中でも、特に平安京はもっとも完成されたものだといわれています。
 戦国時代には、多くの武将たちも風水の知識を大いに活用しました。武将に仕えている軍師たちは、軍師養成学校であった「足利学校」で易や風水などを学び、風水を基本とした都城づくりに大きく関わっていました。
 風水はその後、一般にも広がっていきましたが、大正時代以降このような本格的な風水術は一般には廃れていくこととなります。その代わりに、風水の考えを取り入れて日本独自の方法でより一般的にした『家相』に変わっていきました。

現代に入り、欧米で起こった風水ブームによって、世界的に風水はまた見直されてくるようになりました。その影響からか、日本でも風水は再び注目を集めることとなっています。


道具
    羅盤・・・
(らばん)
  家の向きや、その立地環境を計測するための道具です。また、計測のほかに地場のエネルギーを調節する働きもあり、気になる場所に置いておくだけで運気を上昇させてくれる効果もあります。羅盤には、流派によって「三元盤」と「三合盤」の二種類の盤があり、本格的に風水を見るなら、両方が揃った「三元三合盤」を選ぶと良いでしょう。羅盤には、八卦・十干・十二支・二十四節気など数多くの記号が記されており、お経のように見えるので別名「羅経(らけい)」とも呼ばれています。

八卦鏡・・・
(はっけきょう)
  周りの建物や地理的状況が及ぼす悪影響(殺気)を解消する化殺(かさつ)法に使われる道具です。中央の鏡と周りに書かれた八卦の効力で邪気の侵入を防ぎます。八卦鏡には、「凸面鏡」「凹面鏡」「平面鏡」の三種類があり、それぞれ化殺の方法が違うため、目的によって鏡を使い分けるのが原則です。
魯班尺・・・
(ろはんじゃく)
  建物の寸法にも吉凶が存在し、それを判断するための道具です。2500年前に、「建築の神様」と呼ばれた魯班(ろはん)が長さの吉凶を定めて作ったため、「魯班尺」と言われています。

置物・・・
  風水には様々な置物が存在し、特に、龍や蛙の置物は金運を上げる目的によく使用されています。また、風水で理想モデルとされる「四神相応の地」を作り出すために、東西南北の守り神である「青龍」「白虎」「朱雀」「玄武」の四神獣を、家のそれぞれの方位に配置します。動物の他には、瓢箪(ひょうたん)や古銭なども、目的に応じて設置することがあります。
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