・サイトマップ ・お問い合わせ
占い、無料、恋愛、ホクロ、ほくろ
占い、無料、当たる毎日の易占い
愛のタロット占い
ホクロ占い
おまじない特集
占い師心理テスト
もっと見る

命術
卜術
相術
占い師インタビュー
占い豆知識

占い師を探す
占いショップを探す
書籍・グッズを探す
占い用語大辞典
占い師登録大募集
占いの紹介 卜術(ぼくじゅつ)
周易
特徴
占い師といえば、よく細い竹の束を使っています。あの筮竹(ぜいちく)やサイコロ、コインなどを用いて八卦(はっけ・はっか)と呼ばれる基本シンボルを組み合わせ、『易経(えききょう)』という中国の古典に照らし合わせて解釈していく占いが『周易』です。
この『周易』で使われる『易経』といわれる経典は、聖書やシェークスピア戯曲と並び、世界三大知恵の書の一つとされ、易の思想は全ての中国占術の根底に流れる根本思想であり、さらに人生哲学としても大いに活用できる内容を秘めています。一見、簡単そうに思える占いですが、実は大変奥が深く、高度なレベルにまで昇華されたため、今日にまで残り続けているのです。
古来より人々は、決断を求められた時に、未来の行動の道しるべとして、この『周易』を活用してきました。『周易』は、まさに中国占術の帝王と言って過言ではない存在です。

歴史
繋辞伝によると、伝説的な中国最古の三皇の1人であり人面蛇身の姿をした大昊伏義(だいかんふつき)という人物が、陰と陽の組み合わせでできた8種類の卦つまり『八卦』を最初に創ったと伝えられています。大昊伏義は、5000年前の聖天子で、無知だった人間に牧畜や漁業、調理法を教えたとされています。彼は、天の運行の状態と大地の形勢や理法を見ながら、鳥獣の状態や自分自身の姿を観察し、それらを象徴的にとらえて『八卦』を創りだしました。この世の森羅万象は全て八卦のいずれかに当てはまるといわれています。
 その後、夏王朝の禹王が八卦を2つ重ねて64通りにしたといわれています。これが紀元前23世紀〜紀元前18世紀にかけて誕生した『連山易』です。さらに時代は進み、紀元前16世紀に成立した殷王朝では、亀の甲を焼いてそのヒビ割れから占う亀卜が盛んに行われていました。連山易の跡を継ぐ『帰蔵易』が作られたのはこの頃です。ただ、この時代の易はまだ原始的で、ごく簡単に神のお告げを知るおみくじ的なものだったといわれています。
 歴史を下り、周王朝の開祖である文王(紀元前12世紀頃)は、六十四卦の内容について解説した『卦辞』を執筆しました。その後、文王の息子の周公が父の意志を継ぎ、六十四卦を構成する384種の『爻辞』を記しました。これにより『易経』はほぼ完成されることとなり、周王朝の名を取り『周易』と呼ばれています。周公は易を政治に用い、周を長く治めていきました。
後世になってからは、儒教の創始者である孔子が現れました。孔子は周の政治を理想とし、易を重要視したため、儒教の中で『易経』は重要な書物とされました。孔子は難しい『易経』に、更に解説文である『十翼』をつけ、学のある者なら易をマスターできるよう配慮しました。これによって、春秋戦国時代には他の占いに替わり、易が中国占術の主流となっていきました。
 漢代になると、儒教は国家を支える思想となり、易もまた国家の正式な学問のひとつとなりました。この漢代では、天と人は対応していて、易に隠された秘密を探ることによって、天が引き起こす災害を未然に防ぐことができると解釈する『象数易』という考え方が広がりました。
 そして魏代に入ると、易が最高の哲学であると解釈する『義理易』が考えられていきました。
 さらにこの流れを受けたのが、儒学を再興させた朱子学の朱熹です。彼は義理易にもとづいた易の解釈を確立し、その影響は現在にも及んでいます。
 その後の中国人たちは、みな個々の家でも『易経』を研究し、独自の解釈本を作成していくことになります。
 一方、易が日本に伝わったのは飛鳥時代・553年のことで、当時、日本と関係の深かった朝鮮半島の百済国から伝来しました。陰陽五行思想・陰陽道とともに、わが国の国家組織の中に組み込まれ、易は祭政・占術・諸年中行事・物忌み・医療・農業などの基礎原理となり、時の権力者によって政治・法律・軍事など広い範囲に渡って実践的に応用せれていきました。
 天武天皇は壬申の乱において、自ら易で戦の結果を占ったとされ、この戦で勝利し天皇の位についたといわれています。
 室町時代初期に、足利学校という漢学の学校が開かれ、主に易が教えられていきました。武士たちは、未来を予知する易学者を必要とし、武田信玄も出陣に際して易を参考にしたといわれています。豊臣秀吉は朝鮮出兵の際、大量の易学書を持って帰ってきました。また徳川家康も、関ヶ原の戦いで足利学校の校長に吉凶を占わせたといいます。この足利学校は明治になるまで続き、その校長は年末に歴代徳川将軍の翌年の運勢を占っていたそうです。
ただ、平安時代〜江戸時代の戦乱で貴族たちは衰退し、貴族に仕えていた占い師たちも職を失っていきました。そして易学は一般にも広まり、街中に易を職業とする人たちがあらわれました。易者は求めに応じて易占いを行い、ときには祈祷もしました。
 1790年、第11代将軍家斉は朱子学に傾倒し異学を禁じたため、日本でも儒学が復活することになります。儒学の発展とともに易もブームになり、有名な易者が数多く現れました。中でも新井白蛾は易の大家といわれ、略筮法という占いを考案して広め、以前の本筮法にくらべて易占の方法をずっと簡易にしました。新井白蛾は古易館という私塾を開き、門下生を育成し、晩年には加賀藩に招かれることとなります。
 明治時代になると、高島嘉右衛門(呑象)が現れました。彼は実業家として成功していたのですが、罪を犯して投獄されてしまいます。その獄中でたまたま『易経』を発見し、易の研究に没頭しました。出獄した彼は商売をはじめ、日本の近代化にも貢献しました。当時の政界の大物や実業家は、行動の指針を求めて足しげく彼の元に通ったそうです。また、日清戦争、日露戦争の経過を予言し、伊藤博文の暗殺も言い当てました。1880年には『高島易断』を著して易学者として名を上げました。これによって、易のブームは最高潮に達し、判事や検事までもが裁判判定の参考にしたといいます。
しかし明治維新を境に、ヨーロッパ科学文明の全面的な受け入れにより、易も迷信として退けられ、公式の場から姿を消していくことになります。ただ、それでも易の伝統は根強く、現在でも民間信仰の姿をとり今日に及んでいます。
ちなみに、易は東洋だけでなく西洋でも展開をしていきました。
 ドイツの数学者・ライプニッツは、コンピューターの元となる2進法を考え出したことで有名ですが、中国にいた宣教師ブーヴェから易について教えられ、2進法のヒントにしたといわれています。ライプニッツを通じて易の思想がコンピューターに流れ込んでいるのです。
 また精神分析学者・ユングも易に興味を持ったひとりです。彼は人間の無意識を明らかにするものとして易に注目したことでも有名です。

★易という文字の由来については、いくつかの説があります。いずれも、それぞれの角度から易の本質を捉えた、正当性をもった説明ではあります。

 @『日月説』
易は陰陽であり、人間は『太陽=陽』と『月=太陰』の光の影響を受け、それを頼りに処世してゆくという意味から、「日」「月」を上下にした合字であるという説。

 A『蜥易説(せきえきせつ)』
とかげが1日12回色を変えるところから、生成変化の理を説く易の本質と合致するため、「とかげ」の象形文字・『蜥蜴』から取ったという説。

 B『禁止命令説』

古代の生活において農耕や狩猟その他の行事について、日々の吉凶を占い、禁止命令を出したため、「日」と「勿れ(なかれ)」の合字から出来上がったという説。


道具
筮竹 ・・・ 占筮に用いる道具で、最も古い時代に使用されたものは、蓍(めどき)という植物を用いていたとされています。総数は五十本あり、これを使って卦を立てていきます。細い方を基、太い方を末とします。
筮筒 ・・・ 筮竹を立てておく筒のことで、筮とくともいいます。筮竹を立てておくので、重くて安定感のある物を選ぶと良いでしょう。
算木 ・・・ 占筮で得られた卦を机上に表現するための筮具で、四つの面を持った六本の木片です。二面は陽爻、もう二面は陰爻を表します。これを展開させていくことによって様々な角度から易の卦を観ていくことが可能となります。種類としては、両儀算木と四象算木の二種類があります。
その他 ・・・ 筮竹以外にも、コインやサイコロなどを使って手軽に占うことが可能です。コインなら1〜6枚あれば、サイコロなら八面体と六面体のものがあれば可能です。易が生まれた当初は、亀の甲羅を割って占ったとされており、そのことからも本来、森羅万象すべての物から占うことは可能です。
戻る  方法を読む


会社案内 | プレスリリース | 利用規約 | プライバシーポリシー
このサイトに掲載のイラスト・写真・文章の無断転載を禁じます。すべての著作権は有限会社アカデメイアに帰属します。
(C)2007-2008 占いワールド,lnc